【感想】『かがみの孤城』辻村深月
*『かがみの孤城』のネタバレを含みます。
本屋大賞*1を受賞してあちこちで目に触れることが多くなった『かがみの孤城』。
学校生活から離れて久しい身としては、教室内の人間関係や休み時間のやり過ごし方、目に見えぬカースト制度等々、海馬のどこに眠っているんだというくらい記憶たちがしんと静かにしていたため、『かがみの孤城』は、主人公ではなく作中に登場する大人たちに近い目線で接していた。
そんな私がこの作品に深く感じ入ったこと、考えたこと。
あらすじ
学校での居場所を奪われた中学一年生のこころ。ある日、自分の部屋にあった鏡が光り出し、鏡の向こう側の世界に誘われる。
果てしてそこには、「城」と呼ぶにふさわしい建物があり、狼の面をした少女が立っていた。
城には、こころと同じ境遇の子どもたちが集められており、狼面の少女は彼ら・彼女らにある「ゲーム」に参加する権利を与える。
こころたちは戸惑い、迷い、お互いの距離を測りながら徐々に打ち解けていく。
しかし、"この世界"と"ゲーム"にはいくつかのルールがあり、それが子どもたちを苦しめていく。
やがて全てが明らかになった時、こころが目にしたものとは? 子どもたちの選択とは――?
暴力に対する本能的恐怖、他者の理解
親の留守中、こころの家に加害者たちがやってくるエピソードがある。
こころ自身が直接会うことはなかったが、それは明確な暴力だった。
そしてこころは、自分が暴力の嵐に遭ってなお、家という大事な場所に踏み込まれたことを母親に心の中で謝るのだ。つらい思いをしたのは自分なのに、真っ先にケアされるべきはこころなのに、謝ってしまう。
こころの優しさに胸が詰まった。
こころがそのことを母親に話せたのは、しばらく経ってからだった。
私はこのとき、母親の反応が怖かった。大げさだと片付けてしまうのか、叱るのか。
こころの母親は、「ごめんね」「怖かったでしょ」と寄り添ってくれた。
涙が滲むほど嬉しかった。
お母さんが分かってくれて、心底よかった。
こころちゃんを責めるような母親でなくて、本当によかった。
その母親自身、担任に娘に起きた出来事を伝えるとき、「信じてもらえるかどうか分からなくて怖かった」と語る。
大人同士の会話ですらそうなのだから、子どもが大人に話すときはもっと怖いだろう。
うまく伝えられないもどかしさ、不安感、十把ひとからげのよくあるエピソードとして片付けられてしまうことへの悲しさ、絶望感。
大切な人の言葉を信じる、ということ。
最初は「母親とこころ」を軸にそれが描かれていたのが、やがて「担任とこころ」に 遷移する。
しかし、「担任とこころ」は次のように決着する。
言葉が通じないのは――、子どもだからとか、大人だからとか関係ないのだ。 (略) 自分がやったことを正しいと信じて、疑っていない。 彼らの世界で、悪いのはこころ。 (p383)
この、他者との圧倒的な絶望的な隔たり。
言葉を尽くしても相手に届かない無力感。
自分が受けたことを100%そのまま相手に伝えられない悔しさは、大なり小なり誰もが味わったことがあることがあると思う。
だが、少し冷静になると、誰もがこの「担任」側になりうるのではと気づかされる。
例えば、家族や友人から、ツライことがあった、イヤなことがあった、腹立たしかった――そう告白されたとき、あなたにも非があったんじゃない? という"思い"を一度も抱いたことがない、という人は少ないのではないか。
もしくは、ニュースを見て、被害者に対してすら、この人も悪かったよね、と思ったことはないだろうか。
この担任を支持するわけではない。
腹が立つし、加害者に対して返事を書けだなんて、無神経を通り越して暴力ですらある。
でも人は結局、自分が思う"正しさ"でしか誰かを判断することができない。
その意味では、誰もがこの「担任」と同じ要素を持ち合わせている。
そう考えると、フリースクールの喜多嶋先生の台詞にも納得がいく。
「真田さんは真田さんで、思いも、苦しさもあるんだと思う。(略)」 (p397)
何故こころちゃんの前で加害者を擁護するようなことを言うんだろうと嫌な気持ちになったが、誰かを一方的に断罪したら、それは「担任」がしたのと同じ行為だ。
担任とは違う。喜多嶋先生が信頼できるというのはそういうことなのだろう。
学校教育に思うあれこれ
つらく閉そく感いっぱいの中でスッキリした台詞。
「(略)きっとろくな人生送らないよ。十年後、どっちが上にいると思ってんだよって感じ」 (p408)
いいぞ萌ちゃん! すかっとした。
友達の悪口をいっちゃいけない、仲良くしなくちゃいけない。
そういうのを全部吹っ飛ばしてくれる気持ちよさ。
趣味も、育ってきた背景も、考え方も、話し方も、大事なものも全く違う人間たちが何十人も狭い教室に押し込められてんだから、「みんな、仲良くしましょう」は無理ゲーです。
大人も、自分にできないことを子どもに強いるのはやめたほうがいいよね。
いじめと学校教育で思い出すのが、『ミステリと言う勿れ』(田村由美)。
欧米の一部では いじめてる方を 病んでると判断するそうです
いじめなきゃいられないほど病んでる
だから隔離してカウンセリングを受けさせて 直すべきと考える
日本では逆です
(略)
逃げるのってリスクが大きい
学校にも行けなくなって 損ばかりする
(略)
病んでたり 迷惑だったり 恥ずかしくて迷惑があるのは いじめてる方なのに
ほんとこれ。
映画『アリス・イン・ワンダーランド』にも同じ精神が通底する台詞がある。
主人公アリスが、姉の旦那である義兄の浮気現場に遭遇したとき、姉に恥をかかせたくなければ黙っていろと口止めされる。
アリスはとっさに、「恥ずかしいことをしているのはあなた」と眉を顰めて突っぱねる。
アリスの芯の強さ、動じない心、真っ直ぐに本質を見抜く目が垣間見えるいい場面。
子どもの頃の約束を守った大人たち
孤城の仲間、スバルとアキ。
スバルは、
「目指すよ。今から。"ゲーム作る人"。マサムネが『このゲーム作ったの、オレの友達』ってちゃんと言えるように」(p523)
と宣言した通り夢を叶えた。
自分とマサムネ、二人分の夢を。
「ナガヒサ・ロクレン」は「長久 六連星」。
六連星は昴の別名。
やけに具体的な固有名詞が出てくるなと思っていたら、こういうことだったのかと膝を打った。
記憶は失っても意地でも覚えたまま帰るといった、その言葉通りに。
そしてアキ。
喜多嶋先生が誰かに似ている、という描写があったとき、城の中の誰かだろうなあと想像がついたものの、アキだったとは予想外。
未来のアキに助けられたこころが、今度は自分と同年代だった頃のアキを救う。
救い、救われる関係が大好きなので、この構図に感動した。
『ハウルの動く城』ソフィーの「未来で待ってる!」や、"前前々世"が頭の中を駆け巡る。
未来で待ってるのは先に生まれていたアキの方なんだけれど、この物語ではこころの台詞になる。
こころがみんなを助けられたのは、喜多嶋先生がいっぱいいっぱい助けてくれたからで、喜多嶋先生が存在しているのは、こころにいっぱいいっぱい助けられたから。
ロマンチックな構図にくらくらする。
こころがみんなの幸せを願うのが尊く、その成長が眩しい。
逃げてもいいんだよと、異口同音に言う大切さ
いじめ(という名の暴力)で、学校に行けなくなって、どこかに避難する。
現実では難しいけれど、童話や小説ではよく見かけるストーリー*2。
これって、大人たちが「逃げてもいいんだよ」って言ってくれていたんだなって、今更ながらに気づいた。
ずっとずっと昔から、様々な物語にのせて。
本に出会うタイミングは人それぞれあり、読んだときはぴんと来なくても後々効いてくる場合もある*3。
だから、辻村さんがこのタイミングでこの本を書いてくれて、とても嬉しい。
それが本屋大賞に選ばれて、さらに嬉しい。
こんなにも多くの大人たちが、「逃げなさい」って言ってくれているということだから。
*2020年5月16日にリライトしました。
hojichada.hatenablog.com